東京地方裁判所 平成9年(刑わ)387号 判決 1998年3月02日
主文
被告人を懲役一年二月に処する。
未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入する。
理由
(犯行に至る経緯)
被告人は、平成九年二月九日午後一一時三〇分ころ、東京都新宿区新宿二丁目一八番一〇号先路上において、たまたま道端にしゃがみ込んでいる見ず知らずのAの姿を認めた。Aとその友人であるB、C、Dの合計四名は、当夜新宿界隈で飲んだ上、連れ立って帰る途中であったが、AがCとともに路上にしゃがみ込んだため、BとDは、その様子を見ているところであった。被告人は、Aに対し、酔っ払いをばかにするようにふざけ半分で、そんなところにしゃがんでいると犯しちゃうわよなどという趣旨の言葉をかけたところ、これを聞いたBが腹を立て、何だこの野郎などと言いながら足早に被告人へ近づいた上、やにわに被告人の肩の辺りを手で突いた。険悪な気配を感じたCは、直ちに二人の間に割って入り、怒りの収まらない様子のBを後ろへ押し戻して止めたが、被告人は、何なのよなどと言ってBとにらみ合う状態となった。このとき、それまでしゃがみ込んでいたAが騒ぎを鎮めるため立ち上がって「やめろよ。」と言い、掌を下向きにして指先を垂らし、肘は若干曲げた状態で両手を前方に上げ、頭を下げて手探りするような仕草をしながら、酔いの影響からおぼつかない足取りで、被告人の方へ近づいて行ったところ、その手の先が被告人の顔面に触れてしまった。被告人は、にらみ合うBの方に気を取られ、横から近づくAの動きに気付かなかったため、不意をつかれ、とっさにBの仲間が被告人に暴行を加えてきたものと受け取った。
(罪となるべき事実)
かくして被告人は、平成九年二月九日午後一一時三〇分ころ、東京都新宿区新宿二丁目一八番一〇号先路上において、A(当時二九歳)に対し、いきなり同人の上半身に腕をからませて投げ倒す暴行を加え、その頭部等をアスファルトの路面で強打させ、よって、同人に全治約二か月間を要する脳挫傷、急性硬膜下血腫、外傷性脳内血腫の傷害を負わせたものである。被告人の右行為は、Aが被告人に対し暴行を加えてきた旨急迫不正の侵害を誤想し、自己の権利を防衛するためになされたが、防衛の程度を超えたものである。
(証拠の標目)<省略>
(累犯前科)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示所為は、刑法二〇四条に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、被告人には前記の前科があるので、刑法五六条一項、五七条により再犯の加重をし、その刑期の範囲内で被告人を主文第一項記載の刑に処し、未決勾留日の算入につき刑法二一条、訴訟費用の不負担につき刑訴法一八一条一項ただし書をそれぞれ適用することとする。
(弁護人の主張に対する判断)
一 弁護人は、被告人の本件行為は、Aが被告人に対して加えてきた暴行に対し正当防衛としてなされたものであり、仮にそうでないとしても、被告人はAによる暴行を誤想したのであるから誤想防衛の場合に当たり、あるいは過剰防衛又は誤想過剰防衛の場合に当たる旨主張する。これに対し、検察官は、Aが被告人に対して暴行を加えた事実はなく、被告人がAによる暴行を誤想した事実もないから、正当防衛や誤想防衛の場合には当たらず、また過剰防衛や誤想過剰防衛の場合にも当たらない旨主張する。
二 関係各証拠によれば、犯行に至る経緯及び犯行の状況については、前判示のとおり認定するのが相当と認められるが、若干補足すれば、以下のとおりである。
1 まず、Aによる暴行の存否について検討する。
被告人は、当公判廷において、Aが横から飛びかかってきて被告人の右目付近を殴った旨供述する。しかし、被告人の公判供述によっても、被告人は、Aが近づいてくる左側の方は全然見ていなかったので、直前のAの行動は分からず、当たったのがAの右手か左手かも分からなかったというのである。さらに、被告人は、事件の直後に臨場した警察官に対しても、Aを投げ飛ばして意識不明の状態にさせた行為について、Aが殴りかかってきたなどの弁明的な言動はしていなかったものであり、被告人の司法警察員に対する平成九年二月一〇日付け供述調書においては、からかい半分で声をかけたことに対し相手が腹を立てて飛びかかってきたので、とっさにその人に足をかけて投げ飛ばしてしまった旨、BとAの行動を区別していないかのような供述をし、被告人の司法警察員に対する同月二四日付け供述調書においても、同様の傾向がみられるほか、投げた男が私に掴みかかってきた際私の右目付近を殴ってきた感じがするがハッキリしない旨、殴打されたのか否かあいまいな供述をするにとどまっている。そして、被告人の検察官に対する同月二八日付け供述調書においては、Aが手を前に出して近寄ってきたが、私に暴力を振るってきたわけではない旨の供述をするに至っている。これらは、被告人の公判供述の信用性を相当減殺する事情と考えられる。
被告人の連れで被告人と被害者らとのやり取りを目撃したEは、Aが右手で被告人の左目横辺りを殴り、更にもう一回殴ろうとするのを見た旨証言する。しかし、Eの証言は、Aが被告人を手拳で殴ったのか平手で殴ったのかは分からなかったとしているほか、被告人が殴られた部位について同証言がいうところは、右目付近を殴られたとする被告人の公判供述とも異なっている。また、事件直後に作成されたEの司法警察員に対する平成九年二月一〇日付け供述調書においては、Aが被告人に殴りかかろうとした旨の記載があるのみで、Aが被告人を実際に殴った旨の記載はない。これらは、Eの証言の信用性を一定程度減殺する事情と考えられる。
これに対し、Aが立ち上がって投げ倒されるまでを目撃したDは、Aの行動について、Aは立ち上がって「やめろよ。」と言い、被告人の方へ近づいて行った、その際、Aは具合が悪そうで足元がふらふらしていた、Aは掌を下向きにして指先を垂らし、肘は若干曲げた状態で両手を前方に上げ、頭を下げて手探りするような仕草をしながら、ゆっくり歩いていた、AはBと被告人の騒ぎを止めようとしてこの二人の間に入ったものと思う旨証言している。Dの証言は、詳細かつ具体的で迫真性に富んでおり、その信用性に疑問を生じさせるような事情はうかがえない。同人が当夜全く酒を飲んでおらず、目撃状況が比較的良好であったものと関係証拠上認められることをも併せ考慮すれば、その信用性は一層高いものということができる。
Bは、Aと被告人が接する場面そのものは、止めに入ったCの影に隠れて見えなかったものの、その前後の状況については、基本的にDの右証言に沿う内容の証言をしている。Bの証言は、被告人の言葉を聞いて怒り、何だこの野郎などと言いながら被告人の肩の辺りを被告人の身体が後ろに反るくらいの強さで押した旨、自らに不利益な内容をも含めて供述しており、その信用性に疑問を生じさせるような事情は認められない。
なお、その余の事件関係者であるAとCの各証言についてみると、Aは負傷当時の記憶がなく、また、CはBと対面していたためAが被告に近づく場面を目撃しておらず、いずれもAによる暴行の存否について具体的な供述ができない状況にある。
以上のような各供述を対比し、関係証拠によって認められる当夜のAの酔いの状態や同人の日頃の行動傾向をも併せ考慮して検討すると、Aが被告人を殴った旨の被告人の公判供述及びEの証言は、事実を正確に反映していないものと考えざるを得ないのであって、Aによる暴行の存否については、D及びBの各証言に沿って、存在しなかったものと認めるのが相当である。
2 次に、被告人がAによる暴行を誤想したか否かについて検討する。
前項においてみたとおり、被告人は、Aによる暴行の存在を終始一貫主張していたわけではなく、Aによる殴打行為に言及した被告人の司法警察員に対する供述調書においても、その内容はあいまいであったものである。仮に、真実Aによる暴行を誤想して本件行為に及んだものとすれば、被告人としては、何を置いてもそのことを捜査官に対し強く訴えるのが通常と考えられるだけに、右のような供述状況は、やや不可解であるともいえる。
しかし、信用性が高いと認められるDの証言は、Aによる暴行が存在しなかったことを明確に述べる一方で、Aの手が被告人に触れたかどうかについては分からないとしており、その他本件全証拠によっても、Aの手が被告人に触れたことを否定する直接証拠は見当たらない。他方、被告人の公判供述及びEの証言がAによる殴打行為に言及しているのは、Aの手の先が被告人の顔面に触れたことを誇張ないし誤認して述べているものとみる余地もないではない。そうしてみると、Aが被告人に近づいて行った際、その手の先が被告人の顔面に触れた可能性を排除することは、困難ではないかと考えられる。
また、前判示のとおり、被告人は、当時Bから肩の辺りを突かれるという先制攻撃を受けており、Cが割って入りBを押し戻した後も、なおにらみ合いを続ける緊張状態にあったものであり、そのような状態にある被告人に対し、横の方から手の先を顔面に触れさせる行為は、その真意いかんにかかわらず、攻撃的な行為と受け取られるおそれがあったものと考えられる。そうしてみると、Aの手の先が被告人の顔面に触れた際、被告人の主観において、これをAによる暴行と誤想した可能性を排除することは、これまた困難ではないかと考えられる。
もとより、Aが被告人に近づいて行った際、その手の先が被告人の顔面に触れ、これを被告人がAによる暴行と誤想したとの事実については、これを積極的に認めるべき証拠に乏しい。しかしながら、本件証拠関係の下においては、逆に、右事実が存在しなかったものと認定することについても、未解明の点が残されており、そのように認定することは差し控えておくのが相当と思料される。したがって、法律の適用に当たっては、右事実の存在を前提にすべきものと考えられる。
三 以上の検討に基づき、弁護人の前記主張について判断する。
まず、Aが被告人に対して暴行を加えた事実はないから、弁護人の主張のうち、正当防衛ないし過剰防衛をいう点は採用できない。
しかし、被告人は、Aによる暴行を誤想したものであるところ、右の誤想を前提とすれば、被告人が自己の権利を防衛するために本件行為に及んだことは証拠上肯定できるから、誤想防衛ないし誤想過剰防衛の成否が問題になる。そこで、被告人のした行為の具体的態様を関係証拠に照らして検討すると、誤想に係る暴行の内容は、少なくとも物理的には被害者から顔面に手で触れられたという程度のものにすぎなかったのに、被告人は、いきなり被害者をアスファルトの道路上に投げ倒して、打ち所によっては致命傷を招きかねないような危険な行為に及んでおり、その際、判示のような重傷を負わせることは意図していなかったとしても、そうした危険な行為に及ぶとの認識はあったものと認めるに十分である。したがって、本件行為が防衛に必要な程度を超えており、被告人にその認識もあったことは明らかであるから、弁護人の主張のうち、誤想防衛をいう点は採用できず、他方、弁護人の主張のうち、誤想過剰防衛をいう点は理由があるものと認められる。
よって、被告人の本件行為については、前判示のとおり、誤想過剰防衛を認定した次第である。
(量刑の理由)
本件は、被告人が行きずりの被害者を揶揄したことから争いが生じ、被告人が被害者を投げ倒して傷害を負わせたという事案である。被告人が本件犯行に及んだのは、被害者からの暴行を誤想したためであるが、被害者の動作が緩慢なものであったことなどを考慮すれば、被告人がより慎重に行動していれば誤想は避けられたものとみられる上、被告人の行為は、誤想したところを前提としても、なお防衛に必要な限度を超えていたものである。本件犯行により、被害者は、判示の傷害を負ってその場で意識を失ったほか、一か月以上の入院生活を余儀なくされ、今日においてもてんかんの発作が懸念されるため薬を服用して経過観察を続けている状態にある。それにもかかわらず、被告人は、被害者に対し、謝罪や弁償などについて具体的な措置をとっていない。また、被告人には前記のとおり累犯関係にある前科が存在する。以上のような点に照らし、被告人の刑責は軽視し難い。
しかしながら、他方、被告人が口頭で揶揄したのを相手側が軽く聞き流していれば、当夜は何事もなく推移したはずであるのに、被告人の言葉にBが激しく反応したため、それが本件のような大事へとつながっていったという事情もある。また、Bとにらみ合って緊張状態にあった被告人に対し、被害者の方から近づいて行ったことが、被告人の前記誤想を招いたという一面も否定できない。そして、被告人は、現在余裕がないためいまだ被害弁償はできていないが、被害者に重傷を負わせたことについては反省している旨を述べて、改悛の情を示している。
そこで、本件が誤想過剰防衛の事案であることを含め、以上のような諸般の情状を総合考慮の上、主文の刑を量定した次第である。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判官 永井敏雄)